夕焼けと白玉

 

  夕方、駅までの道を歩いていると遠足から帰宅途中と思われる子供たちと先生とを見かけた。細い道で二列を作りきゃいきゃいと歩く彼らの頭には真っ白な帽子がちょこんと乗っている。

  道路を挟んで反対側の道を歩いていたので、遠慮なくマジマジと見たけれど、私が彼らくらいの年齢の時に被っていた所謂赤白帽とはどうも違うように見えた。

  白は白だが、正面に何やらオシャレなマークが書いてあった。

  彼らは私が知る小学一年生よりももっとちみっこく見えたので、多分幼稚園児であろう。幼稚園のマークだろうか。そんな、オシャレな帽子がある幼稚園なんて。良いところの子たちなのだろうか。

  ちみっこい白いまるまるとしたものがゆらゆらぴょんぴょんと流れるように歩く様は、何やら面白かった。

  白玉がたくさん浮かんで流されているようだ。

  善哉川。高級住宅街のそばにあり、地域の人に親しまれる登美丘公園を囲うように流れる川。

  あまい砂糖で煮た豆が、とろとろとちっこく丸く白い園児たちにきゃいきゃい高い声を上げさせる。涼しい風が吹き、善哉川はゆるく波を打つ。白玉たちはきゃーと声を上げてどんぶらどんぶら蕩けた豆の中を揺られてゆく。小さな白玉も大きな白玉も、2つずつで並んで流れてゆく。

  こらー!そこの白玉、ちゃんとお手手を繋ぎなさい!

  先生白玉の声が響く。

  いや、先生は白の帽子を被っていないので白玉では無かった。

 

  しかし私は善哉が好きではない。白玉も豆、小豆も好きではない。小豆はこし餡なら食べられないこともないが、つぶとなると、皮をぺっとしたくなってしまう。白玉も、というか粉と水とを練って作ったもちもちねちねちしたものがどうにも苦手である。

  私が白玉であったとき、園では季節ごとの行事が沢山あった。季節の遠足はもちろん、春にはビワを食べ、夏にはスイカを割り、秋には芋を焼き、冬にはお餅をついた。

  お餅つき。園内の広場の中央に臼と杵をどんと置き、先生と共に杵を振り上げるのが楽しかった。それはもう、この行事のピークはそこであるという程には。

  しかし他の白玉にとってはまだまだ興奮は上り調子で、頂点に達するのは自分たちでついたお餅を砂糖醤油やきな粉で食すときであった。

  グループごとに席につき、4つの机をひっつけて中央にラップをひき、どんと白色の塊を乗せる。手を合わせて、いただきます! の声に合わせて、白玉たちはわっと白色に手を伸ばす。小さな手で小さく餅をちぎり、顔をべとべとにしながらもちもちと餅を食う。共食いである。当時の写真が実家に残っているが、皆がにこにこ片手で餅を持ち片手でピースしている中、私だけが両手でピースをしていた。餅を食え。

  大人になってピーマンやにんじん、なすびは食べりるようになったが、未だにもちは食べられない。お雑煮も苦手である。抹茶ももちろんのことだ。

  しかしオトナというと、京都ではんなりと善哉を食べ、餅をびよーんとのばし、抹茶をずずずと啜っているイメージがある。それになりたい。ほほほと笑いながら、ええ天気どすなとオトナな連れと談笑したい。したいなと思いつつ、珈琲をすすりドーナツを食すのだった。